2014年10月13日

10月12日(日)

米田知子「暗なきところで逢えれば」を姫路に見に行く。
JR大阪駅でgさんと待ち合わせをした。お互いに使う改札が違うので、「じゃ、ホームで」ということだったのだが、いっこうに姿が見当たらない。
そうこうしているうちに、乗車する電車が来た。お互いに先頭車両に乗っていると言い張るが、姿がない。
話は簡単で、わたしが姫路行きではなく、逆方向の京都行きに乗車していたのだった。新大阪で気づけてよかった。
どこ行きなどあまり確認せずに、来たものに乗ってしまうという、そういう要素がわたしにはある。間違った方向にずんずん歩いてしまうこともある。

姫路まで1時間、おしゃべりしようとおもっていたのに、結局、それぞれ行くことになった。窓際に座って、本を読む。
秋の、控えめな光が降り注ぐ。目を閉じても、否応なしに侵入してくる、あの夏の強引な(その強引さがすきだけど)光とは違って、遠慮がちでやさしい。

本を片手に寝入ってしまう。目ざめたら、須磨で、車窓には海が広がっていた。空も海も、霞んでいた。くっきりしない風景。

姫路に着いたら、中央改札の前でgさんが回転焼きを食べながら待っていた。「逆方向に乗るなんて、そりゃおらんわな」と言った。
駅を出ると、遠くに姫路城が見えた。ほんとうに白い。gさんが「あれ、プレハブ?」と聞いてくるので、「そんなわけないじゃない」と言いつつ、そんな質問をする意図がまるで分からないでいた。謎なひとだ。

米田知子の写真はすばらしかった。
見えるものと見えないもののあいだ、記憶と不確実さの彼方、パラレル・ライフ。
わたしたちは、風景や物をいかようにも見ることができるし、見ないこともできる。それは書物をいかようにも読めることと似ているようで違う。
いろんなことの背景や歴史や、そういうことをちゃんと知って、何かを見るということは、読むということはやっぱり必要なのだろうか。実はそこについては答えが出ていない。ただ、知らないと見えないものがあるのは確かだ。

「見えるものと見えないもののあいだ」では、作家が書いた文章を作家のかけていた眼鏡ごしに見ると、焦点のあたっている部分は文字がくっきりしているのだけど、そうじゃないところはぼんやり。当たり前のことだけど。
きっと、みんな、そんな風に世界を見ている。焦点のあたってないところはあんまり見えない。
それで、自分がかけていた眼鏡をとってその写真を見たら、作品全部がぼんやりで、というか、美術館内すべてがぼんやりで、わたしは裸眼で世界を見たら、きっとすべてがどうでもよくなるな、眼鏡ってすごいとおもった。

照明の関係か、作品にじぶんの姿がわりにはっきり映ったのが気になった。
でも、その姿を見ながら、幾人もが同じ写真を見ただろうことをおもった。知人の中にも米田知子の作品展(姫路や東京で)を見たひとは多いので、そのひとたちのことも考えた。彼らは何を考えながら見たのだろうか。とか。

感動しながら作品を見ていたら、密着度1000%くらいのカップルが視界に入って来た。というか、追い越された。
すこし離れたところにいたgさんに「あのひとたちが視界から消えてから、次の作品見に行こう」と言う。こういうのはほんとうに興ざめする。
見終わった後、gさんが、「すごい剣幕だったー。」と笑っていた。

年を重ねても、許せないことが減らない。すこしは丸くなりたいものだ。

姫路のカフェでご飯を食べた後、「あのみそ汁、ないわ。わかめがベロベロだったもん。わたしが作ったのより不味い」と、また文句を言いながら大阪まで帰った。