2015年10月3日

竹生島とロージナ茶房

シルバーウィークに琵琶湖にうかぶ竹生島に行った。天気がよくて、琵琶湖を船で渡るのは旅って感じでたのしかった。
急な階段をのぼって神社でおみくじひいたり、御朱印もらったり。また、船で近江今津まで戻って、ヴォーリズ建築みたり、喫茶店で喋ったり、といつも通りな感じだった。

そのとき、昔書いたmixi日記読み返したら、すごいおもしろかった、とごうださんと話した。わたしもちょうど読み返していたので、おおいに同意する。10年くらい昔の日記。不惑のわたしたちは過去を振り返りたい時期なのかもしれない。

それで、ごうださんの日記を久しぶりに見ていたら、「邪宗門とロジーナ」と題された日記が目に付いた。2005年9月15日。


「今、邪宗門というカフェにいます。この店はアンプを真空管にしました。古いものを大切にし、そして進化しているのです。」そんなお便りをいただきました。レターセットは古い文房具やさんのもので、雁皮だそう。そのカフェは、お便りの主の詩人の詩の中では、「お店の宝石」と書かれています。お隣には、ロージナというケーキやさんがあって、それは「雪とケーキ」という詩にでてくるのです。「そんな小さな歓びに支えられて暮らしています」との言葉に、ねっころがって漫画ばっかり読んでいて、はずかしくなったので、下着姿でごろごろしないで、襟をただしてすごそうとちょっと思い直しました。秋ですし。


この日記で、「詩人」と呼ばれているのは片山令子さん。
先日、10月10日、11日に参加する「かまくらブックフェスタ」の件で、片山さんに連絡したところ、「昨日、国立増田書店で本を買って、レジにあった かまくらブックフェスタのチラシをもらって帰ったら、 真治さんからメールがきていました。」という返事をもらった。それでいろいろ話していたら、「東京の近くにいらっしゃるなら、お会いする機会を 持てないものかなと」と言っていただいた。
かまくらにはちょうどごうださんも来ることになっていて、じゃあ、会いましょう、ということになり、会うのは、「雪とケーキが生まれた、ロージナ茶房の 一階がいいなと考えています。 」という提案を片山さんからいただいた。

10年前と同様、わたしもごうださんも下着姿のままごろごろしながら、漫画ばっかり読んでいるのはなんらかわってなくてすこしおそろしい。
しかし、詩人に「雪とケーキ」がうまれた喫茶店で会えるなんて、10年前にはおもってもいなかった。
ほんと、「小さな歓び」みたいなものに支えられて生きているのだなあ、だなんて。
ちょっとセンチメンタル。秋ですし。























上:琵琶湖に浮かぶ竹生島
下:ヴォーリズ建築の教会

2015年5月10日

ぽかん5号がでました。

若葉が風にゆれると光がきらきらして、見上げると軽く目眩がする季節ですね。
五月は本当に美しい季節。


さて、ぽかん5号が出ました。

「ぽかん」5号目次
黄のはなのさきていたるを   服部滋
とけていく記憶    佐久間文子
テレビ出演転末記   山田稔
友だちと文庫本にまつわる話   保田大介
父のチェーホフ(二)1928年、湯浅芳子  扉野良人
鳥の糞   岩阪恵子        
多喜さん漫筆() 学校での談義から  外村彰
めぐりあいと再会   秋葉直哉            
千代田区猿楽町1-2-4(其の三) 内堀弘

付録
ぼくの百 中野もえぎ


付録
「のんしゃらん通信」vol.3目次
フリーダの根、ベロニカの花 佐藤和美
お月様はいなかった 福田和美
磯野波平さんと同い年になりました 森元暢之
ぐらぐらと椅子がゆれるので直してと花が
ポストに
100 万円文学館    帆布次七
旅ぎらいの旅   佐藤靖

あんしんしてくらすこと 郷田貴子

通信販売もしています。
pokan00#gmail.com(#を@に変更してください)宛に
氏名、住所、電話番号、希望冊数をお送りください。(1号以外のバックナンバーもあります)


2015年1月11日

ときめきは節操ないね。

元旦、おおきな雪が舞うなか、甥っ子と凧揚げをしたせいか、年始早々、風邪っぽい。
鼻水たらしながら、喉いがいがのまま、出勤。

金曜日
2015年、初出張。東京へ。
新幹線からきれいな富士山がみえた。神田で仕事の後、次の現場、浜松町へ。設営。
夜、ライトアップされた東京タワーを同僚たちと眺める。「あれ、東京タワーだよね」とか言いながら。

土曜日
浜松町で仕事こなし、終了後、すぐさま新幹線に乗って大阪へ帰る。本なんて読めない。本なんか読まない。それでいい。だって、疲れているもん。マフラーをまいてひたすら眠る。


日曜日
ひたすら眠ったら、体調が快復している。我が免疫力の高さに驚く。
洗濯して、珈琲飲んで、紅茶飲んで。寒いからどこへ出かける気もしない。
年末に龜鳴屋の勝井さんから『ル・アーヴルの波止場で 二十世紀歌謡・映画・ノスタルヒア・港町』松井邦雄をいただいた。装幀、すばらしく、検印紙も洒落ている。
http://www.spacelan.ne.jp/~kamenaku/



























2014年11月1日

11月1日(土)

11月最初の日。きょうは雨まじり。

きのうの夜は映画を見て、遅い時間に地下鉄に乗って帰る。
ハロウィンとやらで、仮装したひとたちは華やいだ空気を纏っていた。そこから切り取られたみたいにぼんやり立っているわたしが暗い窓に映る。文庫本を片手に持って。
不満そうな、居心地悪そうな表情。

久しぶりに『我が感傷的アンソロジイ』を捲る。岩本敏男の章。
「ひところ私はおこがましうある新聞の投稿詩の選者をしていたが、投稿者のなかで岩本敏男の作品は抜群だった。」と書かれいてる。

一九五五年の秋、何の飾りっ気もない白表紙の『岩本敏男詩集』が送られてきたのだが、天野さんの一番気に入りの作品はどうしてだがこの詩集からは洩れていたそうだ。「新聞の切抜きもないのでここで紹介のしようもないのが、私にはたいへん心残りだ。」とある。「たしか「独立の日」と題された作品だった。」

随分前に無名の女性が書いた『天野忠さんを偲んで』という小さな冊子を貰った。古本屋で安く売られていたという。
天野さんは朝日カルチャーセンターで現代詩講座の講師をしていたのだが、その教え子の方が書いた、つつましい自費出版の冊子である。
繰り返す引越しのなか、売られることも、捨てられることもなく、本棚のすみっこに常にある。普段は忘れているが、何年かに一度、その存在をおもいだす。そして、棚から抜いて眺めるのだ。まことに不思議な不思議な冊子なのである。

当時の朝日カルチャーセンターの現代詩講座は天野さんと大野新さんが交替で講師をされていたらしい。今からおもえば、なんと贅沢なことだろう。
そのうすい冊子に、前述の「独立の日」が全文引用されていて、発見したときは、「あ!」と驚いたものだ。

「詩人のなすこういちさんが、五十年前の新聞の切り抜きを保存されていて、詩誌「鳥」に紹介されたそうな。」と説明されている。


独立の日  岩本敏男

その日は 家の
六畳と三畳に
黒い布をしきつめて
母は糸のもつれをほぐしていた
私は窓ぎわにいて
糸車のハンドルをまわしていた
昼になって
私はパンの耳をかじった
母は井戸で水をくみながら
レイテ島で戦死した
兄の法事をせねばならんといった
その日は
空も晴れていて
物干の洗濯物もよく乾いて
裏の柿の若葉に
小さな鉢がうなっていた


きょうは、何年かに一度、その不思議な冊子の存在をおもいだした日だった。
雨降りの、11月最初の日。





2014年10月25日

某月某日

某月某日
ねむってもねむってもねむい。覚醒しているのにあたりが暗いと起きる気がしない。すこし寒いし。
通勤時に読んでいた金田理恵『ぜんまい屋の作文』を電車の中で読了。
龜鳴屋の勝井さんがつくった本。買う機会を逃していたところ、阿佐ヶ谷のコンコ堂で見つけた。あれはことしの、夏になる前のことだったか。

「初夏の夕暮れだった。空にはばら色の雲が浮かんで、あたりの光もちょっと甘く染まっている。ほの暗くなった木陰に咲いた白い花房に向き合って、ハチが羽音をたてていた。そのとき、今、このハチと花の間に宇宙のへそがあるよ、と言われたら、すんなり信じられる、と思った。へそなんて、存外そんなところにあるものだ。」(「きれっぱし」『ぜんまい屋の作文』)

わたしも単純な生活に憧れる。


某月某日
頭痛がひどく帰宅してからすぐにねまきに着替えて眠る。「読むように書く」とはどうやったらできるのか。時間や記憶をつなげる。3時頃目が覚める。頭痛がまだ続いていた。


某月某日
衣替えをする。
「あら、お姉さま。いまから隣町で葬儀でもございますの?セバスチャン、セバスチャン!馬車をお出し!」
会うなり、そんな寸劇を始めたあと、「お姉ちゃん、そんなコート着てるよ」と溜息まじりに妹に言われたことが忘れられない。
クラシカルな形の、黒のロングコート。たしか買ったばかりだった。言われるとわりに気にするほうだから、ずっとクローゼットに入れっぱなし。でもまだ捨てられない。袖を通す度に、セバスチャンに馬車で隣町に運ばれるような気がしてしまう。


某月某日
維新派の屋台にgさんと行く。沖縄そば、ホットフルーツワイン、ホットチャイなど。寒いなか、焚き火のオレンジ色がゆらゆらしていてあたたかだった。大阪に住んでいるなあとおもった。チケットをとったらよかったな。

某月某日
「隣屋敷の蜜柑畠をかいま見ながら、臥床(ねどこ)を離れたばかりの、朝の間のそういう時間でなければ決して覚えることのない、ただふとした何の奇もないものに対する鮮明なー現象液によって今そこに洗い出される印画のように鮮明なちょっと言語道断の興味を、詩興というほどまとまったものではないまでも、とにかく潑剌とした感興を、私はそういう時に覚えることがすくなくない。」(「小庭記」『三好達治随筆集』)

「永く私の記憶に残る」ものについて考える。


2014年10月18日

10月17日(金)

朝、5時台に起きると、あたりはまだ暗い。朝がほんとうに短くなった。
珈琲を飲みながら、立原道造の「啞蟬の歌」を読む。三好達治に捧げられた詩だそうだ。
啞蟬。鳴かない蝉。
この夏、たくさんの蝉の声を聞いた。だけど、あの声は雄だけのものなのだ。鳴くこともなく、ひっそり命をおとしていく雌の蝉。いや、あんな風に激しく鳴く必要がないだけ、心穏やかななのかもしれない。

この詩はどの本に収められているのだろう。そんなことを考えていたら出勤の時間はすぐ訪れた。

退勤して図書館へ。
ことし、生誕100年だという立原道造の小さなフェアが展開されていた。その横では「三好達治と三好達治賞の詩人たち」というコーナーが。清水哲夫や高階杞一、長田弘などの詩集が並べられたいた。
この図書館に詩が好きなひとがいるんだろうか。今朝、わたしが考えていたことがどうしてわかったの。こころの中で矢継ぎ早に言葉がうまれる。棚を眺めながら小さな偶然がとてもうれしかった。
小さなコーナーにあった立原道造の全集をぱらぱら捲ったけれど、「啞蟬の歌」は見つからなかった。(わたしの見つけ方が甘い)かわりに『三好達治随筆集』を借りて帰る。

「私も来年は四十である。」という一文からはじまる「秋夜雑感」をいう文章を、秋の夜に読む。わたしも来年で四十になります、とおもいながら。

「全く生きているということは、考えてみると、偶然を幾重にも積重ねたーそうしてなお不断にそれを積重ねている、危っかしい建築物の危っかしい建築工事のような気持ちがするのである。かく我々の在るはただ主なる神の憐憫によってのみ。」(「秋夜雑感」三好達治『三好達治随筆集」より)

きょうあった小さな偶然をまたひとつ、ゆらゆらと積重ねる。

「大阪靭」という文章も読む。
三好達治は大阪の西区靭にあった小学校を出たという。わたしは数年前まで靭本町に住んでいた。(かのS団地は靭本町にある)
靭のあたりは乾物問屋が軒を並べていたそうだ。(二百戸にも近かったろうか、と書かれている)
靭本町にはいまや、そんな痕跡は全く残っていなかった。(とおもう)
あの町の、どのあたりにある小学校に通っていたんだろう。そんなことも知らずに、わたしはあの町で暮らしていた。













2014年10月16日

10月14日(火)

「文章のもつすべての次元を、ほとんど肉体の一部としてからだのなかにそのまま取り入れてしまうということと、文章が提示する意味を知的に理解することは、たぶん、おなじではないのだ。」(須賀敦子「葦の中の声」/『遠い朝の本たち』所収)


それは文章を読むことに限らず、音楽を聞くこと、映像や写真を見ること、芸術作品を鑑賞することにも通じる。作品が持つ背景や文脈を知的に理解できずとも、感覚の深いところで、無意識に近いところで、「なにか」を感じ、こころが震えることがある。きっとそんなとき、からだに作品をそのまま取り入れてしまっているのだろう。そのことの尊さ。
ただ、知的に理解することも、静かで深い感動があって、こころへの刻みは深い。

火曜日、仕事が終わって、梅田へ。
ラース・フォン・トリアーの『ニンフォマニアック』を見る。映画を見る前にgさんと待ち合わせして、グランフロントでカオマンガイを食べる。
gさんは幼少期をシンガポールで過ごしており、ずいぶん昔、よく「チキンライスが食べたい」と言っていた。チキンライスと言えば、日本人は赤いケチャップご飯を想像するが、シンガポールのチキンライス(海南鶏飯)は、丸鶏をゆでて、そのゆで汁でご飯を炊いた、、まあ、今の日本ではよく目にするようになったあれである。(15年くらい前はあまりなかった。)
カオマンガイはシンガポールではなく、タイ料理だが、まあ、似たようなものである。

ラース・フォン・トリアーの作品を、まるで義務のように見ているが、もはや見たいんだが、ほんとうは見たくないんだが、わからなくなっている。
トリアーが過激な性描写をまるで苦行や修行のように描くのと同じように、わたしもまた、修行する気持ちで見ているような気がする。見たくないのに見る。不思議な感覚だ。

やはり、作品の底辺にあるのは宗教なのであろうと個人的にはおもっていて、わたしの理解では辿り着けない場所であるなあと諦めの気持ちだ。
「女性のセクシュアリティ」をテーマに据えた作品って、嘘だろ、って感じだ。

過度に純粋なのか、ただのうすら馬鹿なのか。
脇目もふらず、目指した方向に一直線に進んでいくような女がトリアーの作品には出てくる。「これしかない」「こうするしかない」という信じ込んだ女たちの、その目がわたしはすきだった。

それは何かを強く、深く、脇目もふらず信じてみたいという、わたしの願望のあらわれかもしれない。