2014年10月16日

10月14日(火)

「文章のもつすべての次元を、ほとんど肉体の一部としてからだのなかにそのまま取り入れてしまうということと、文章が提示する意味を知的に理解することは、たぶん、おなじではないのだ。」(須賀敦子「葦の中の声」/『遠い朝の本たち』所収)


それは文章を読むことに限らず、音楽を聞くこと、映像や写真を見ること、芸術作品を鑑賞することにも通じる。作品が持つ背景や文脈を知的に理解できずとも、感覚の深いところで、無意識に近いところで、「なにか」を感じ、こころが震えることがある。きっとそんなとき、からだに作品をそのまま取り入れてしまっているのだろう。そのことの尊さ。
ただ、知的に理解することも、静かで深い感動があって、こころへの刻みは深い。

火曜日、仕事が終わって、梅田へ。
ラース・フォン・トリアーの『ニンフォマニアック』を見る。映画を見る前にgさんと待ち合わせして、グランフロントでカオマンガイを食べる。
gさんは幼少期をシンガポールで過ごしており、ずいぶん昔、よく「チキンライスが食べたい」と言っていた。チキンライスと言えば、日本人は赤いケチャップご飯を想像するが、シンガポールのチキンライス(海南鶏飯)は、丸鶏をゆでて、そのゆで汁でご飯を炊いた、、まあ、今の日本ではよく目にするようになったあれである。(15年くらい前はあまりなかった。)
カオマンガイはシンガポールではなく、タイ料理だが、まあ、似たようなものである。

ラース・フォン・トリアーの作品を、まるで義務のように見ているが、もはや見たいんだが、ほんとうは見たくないんだが、わからなくなっている。
トリアーが過激な性描写をまるで苦行や修行のように描くのと同じように、わたしもまた、修行する気持ちで見ているような気がする。見たくないのに見る。不思議な感覚だ。

やはり、作品の底辺にあるのは宗教なのであろうと個人的にはおもっていて、わたしの理解では辿り着けない場所であるなあと諦めの気持ちだ。
「女性のセクシュアリティ」をテーマに据えた作品って、嘘だろ、って感じだ。

過度に純粋なのか、ただのうすら馬鹿なのか。
脇目もふらず、目指した方向に一直線に進んでいくような女がトリアーの作品には出てくる。「これしかない」「こうするしかない」という信じ込んだ女たちの、その目がわたしはすきだった。

それは何かを強く、深く、脇目もふらず信じてみたいという、わたしの願望のあらわれかもしれない。